昨夜、からすさんから、私にとっては大きくて重たい問題提起をいただいた。
【PTAは本当に必要なものなのか】
少し引用させていただく。
>たとえばPTA新聞。
>活動内容自体(文を書く、企画する等)が苦手、または嫌いな人、人間関係が苦痛な人、
>PTA自体に意味を見出せない人(もっと大事なものがあると)、
>本当に大変な問題を抱えている人(他人に話せるとは限りません)、
>そういう人達を無理やり引っ張り出してまで作らねばならない新聞なのかしらと
>いつも疑問に思います。
>自分だって忙しいし好きでやってるんじゃないのに
>あの人は出てこない、なんて陰口を叩かれる立場に
>人を追いやってまで、作らなきゃならないものかしら、
>そもそも多くの人ができればやりたくない活動に
>何の意味があるのかしら、と思ってしまうのです。
>「するべきこと」があるのなら、皆一様に順番に、ではなく
>真に「するべき」と考える人が自主的にすれば良いと思うのです。
>PTAを無くす学校が増えています。
>今のところ弊害があるとは聞いていません。
>どうなんでしょう。
からすさんご自身は、何度も役員としてPTA活動に従事して来られている。
役員としての役割と被る負担に、悩み続けて来られたうえの疑問である。
それにそって、少し考えていたことをまとめて行ければと思う。
2月22日分の私の日記と随分重複してしまうような気がするが、お許しいただきたい。
●PTAは必要か(何のための、誰のためのPTAか)
PTAの形は、学校によってさまざまである。
よって、ひとくちに必要である、ないを論ずることはできない。
ただ、私の極論は、
「PTAなんて必要ないでしょう?
いつもいつも保護者ひとりひとりが、子どもたちひとりひとりを見つめ、
先生方ひとりひとりと温かくで深い交流を持ち、
子どもたちの必要なときに、必要とされる手をタイムリーに差し伸べることが
できているのならば」
である。
「学校行事で、先生が一声かければ、保護者の協力の手がわらわらと集まる」
「学校に、保護者が一声あげれば、たちまちその声が取り上げられ、
皆の問題としてフィードバックされ、改善に向けて検討され善処されていく」ならば。
でも現実はどうか。
◆◆
「役員さんは大変」、ではなくなるよう。
「役員さんは面白い」「役員さんは感動できる」。
或いは「役員さんは誰でもできる。だってみんなが助けてくれるから」
という学校に、PTAに、なって行きたいなぁと努力し続けた10年でしたが、
10年でも足りませんでした。
そして年々、「これってどーよ」と叫びたくなる保護者さんが増えてきているな、と
正直、痛感しています。
PTA活動を長い期間やってると、本当にいろんな保護者に出逢います。
さまざまに事情を抱え、さまざまに頑張っておられ、
そのさまざまを背負わされている子どもたち。
ことある毎に、実にさまざまな保護者の感情が吹き零れ、
思わぬところに落とし穴を見出すことが多々、あります。
声高に語られ、実によく耳にする『価値観の自由』。
必ず自分たちがやりたい放題したいときに、吐かれる言の葉。
私は強く叫び返したい。
『価値観の自由』と謳うなら、
己れがその価値観を選択し、行使した結果まで、きちんと背負え、と。
自由には責任がともなうということ、知らんのか、と。
子どもの躾は親がする。
んぢゃ、親の躾は誰がする?
「思いやりを持ちましょう」「ひとの立場に立ったものの観方をしましょう」
小学校でも習うことでしょう。
「もし、私が役員だったら」って、誰も思わないのでしょうか。
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先日のPTA懇親会。
教頭先生が、保護者に向けて、
「どうぞ、まずは、学校に来てください。
いつでも、お時間在るときにお出で下さい。
そして、ご自身の目で子どもたちを観てやって下さい。
確かめて観てください。 そして、褒めてやってください。
何よりもまず、しっかり子どもたちを観て、そして褒めてやって下さい」
と挨拶されました。
私は、閉会の挨拶で、
「どうぞ、まずは学校に来ていただいて、
子どもたちがどんな表情で授業を受けているか観て下さい。
子どもたちが、どんな友だちに囲まれ、どんな笑顔をしているか、しっかり観て下さい。
そして、先生方を観てください。
先生方がどんなにご努力されているか。 どんなに苦しんでいらっしゃるか。
しっかり観て、しっかり先生方を褒めてあげてください」と言いました。
保護者の間では笑いが出ましたが、何人かの先生方は泣いておられました。
私も、泣いてしまいました。
私のたったこれだけの言の葉で、泣いてしまわれる。
先生方は、これほど追い詰められ、悩み、苦しんでおられるのです。
公立学校の教職員は、一地方公務員です。
上からのお達しには、NOということができません。
殊に広島県では、文部科学省の査察が入り、
非常に「上」からの締め付けが厳しくなりました。
例えば職員会議。 廃止され、毎朝「伝達事項」が「伝達」されるだけ。
例えば卒業式、入学式。
小学校も中学校も、「式は式である」と何より「儀礼」を重んじるようになって、
対面式も廃止、菜の花などの飾りつけも禁止。
元号統一。「お別れのことば」でなく「送辞」。
「日の丸」の大きさ、位置。
「君が代」がちゃんと声を出して歌われているか。
地域の民生委員さんを何人も配置し、何年何組の誰が声を出していなかったか、
何年何組の誰の保護者が声を出していなかったか、起立しなかったか、
全部チェックしていくようなことまで行われました。
「ちょっとおかしいのでは? やりすぎなのでは?」
こんな素朴な疑問さえ、先生方では口にできないのです。
できるとすれば、それは、子どもたち自身であり、子どもたちの保護者なのです。
でも、たったひとりの保護者では。
たったひとりの先生では。
子どもたちを守れない。育てられない。
ひとりでは、何もできないから。
私たちの大事な、ひとりひとりの子どもたちが、来たるべき自立の時期に向け、
幼い自我をぶつけあって、互いに学び、努力して。
自分の足で立ち、社会生活をより良く営んでいけるよう、
健康にすくすくと育って欲しいから。
そのために、保護者として、保護者同士と手を繋ぎ、
先生方と手を繋ぎ、協力し合い、子どもたちを見守り育む。
その願いが形となったのがPTAである、と私は思っています。
今、学校の現場では、
生徒たちと共に在ろう、と心有る先生。
志高い先生ほど、学校側、教育委員会側、教職員組合側、保護者側、との
板ばさみになられ、心身を壊してしまわれるほどギリギリのところで
頑張っておられます。 (そうでない先生も勿論、いらっしゃいますが)
この先生方のご努力が、或いは怠慢が、何故保護者に届かないか。
私たちが観ようとしないから。 私たちが聴こうとしないから。
識ろうとしないから。
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保護者も皆が皆、自分が生きていくのに忙しいのです。
1年で顔ぶれが変わって行くために、
きちんとした目的意識や仲間意識に裏打ちされたPTAは、殆どないでしょう。
どのPTAも既存の行事に追われ続け、
みんなみんな閉塞状況にあるのではないかとも拝察致します。
でも、子どもたちを想う、保護者の心はきっと同じのはず。
私たちはそれを信じ、頼みの綱とするしかありません。
しんどかったら、なんでこの行事があるのか、しなければならないのか、
皆で考えましょう。
そのために皆が集まり、智恵を出し合い、役割分担をし、語り合うのです。
皆が皆、嫌でたまらなければ、PTA新聞だってやめてしまえばいいのです。
ただ、やめる前に、きちんと総括しましょう。
どうして、今の時代までPTA新聞が残って来たのか。
最初は何の目的で始まり、その目標は達成されたのかどうかを。
PTAも組織です。
どんな情熱も願いも祈りも、組織となった瞬間、
それを維持し、運営ていくためのパワーが必要となり、
変容してしまわざるを得ません。
お金も必要になります。 大きなお金が動きます。
だから、報告が必要となります。 総会も必要となってくるのです。
『PTA不要論』も、PTAのあり方、運営の仕方そのものを見なおした、
具体的で建設的な提案であるなら、
全てのPTA執行部は、いつだって待ち望んでいると思います。
子どもたちが掃除をしたがらない。
塾やクラブで忙しい子も多い。
暇な子だっているのに、全員で籤で順番を決めて掃除をするのはおかしい。
真に掃除をしなくてはならない、と考える子や、
より上手に楽しんで掃除ができる子がすればいいのでは。
或いは、お金を出して、清掃業者に頼めばいい。
それでは、子どもは育ちませんよね。
本当の問題解決ではないはずです。
何故、掃除が必要なのか、皆が考え、皆が識り、
できれば皆が納得し、
どうせなら皆で効率よく、楽しんで掃除ができるようになれること、が
1番望ましい答えなのではないでしょうか。、
PTAを単なる学校行事消化型で終わらさないためにも、
役員は、いろんな事情を抱えた方がいろんな立場で、いろんな視点で。
そして、「できる範囲で」、自然体で入れ代わり立ち代りで
やっていただくのが一番いいのではないかなって、思います。
たくさんのひとが、学校行事を識り、役員の役割を識り、先生を識り。
そして何より、子どもたちの現状を識り、
保護者同士、互いの事情や考え方の違いを識り合うことで、
互いに助け合い、協力し合えて行けるんじゃないかと。
はじめて、ここで学校教育と家庭教育が互いに補完しあい、
連動しあうことができるのではないかと。
互いに識り合えば、識り合うほど、のほほんとはしていられない。
役員じゃない方々が、役員さんを支え、目標を達成していく。
子どもたちには、そんな保護者同士の姿を見て欲しいな、って思います。
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トラックバックをいただいたので、そちらで読んでいただくとして。(幼稚な意見で恥ずかしいですが)
君が代!ウチの中学でも、みんな起立して歌ったけど、
子どもたちは、君が代を知らないの。
教えてもらわないの。
ただ、式になると、最初に君が代斉唱があるの。
だから、あんなに歌のうまい子どもたちなのに、
君が代の歌は小さいのです。
ここにさわるといろいろややこしそうなので、
みんな???と思いながらも過ごしているのですが、
そうじゃないところもあるのですねえ。
程ほどはないのか!と思います。
私は、別に君が代くらい立って歌っても良いんじゃないかと思うのですが、
そこまで強制されるのはイヤですねえ。
難しいモンです。