『 傘物語 』 に たくさんのコメントを有難うございました☆☆
義母の言の葉に、思わず絶句した後、
きゃらきゃらと 笑い飛ばした私です(笑)。
それは、厳しい農家の分家の嫁稼業をこなしながら、
三兄弟を無事に育て上げ、手元から放した義母の想いを、
散々、散々、聞かされて来たから、でした。
せめて、末っ子の三男は近くに在って欲しいと願いつつ、
その子の望む京都へ 大学進学を許した義母。
ほんの数日しか帰省しない子どもたちを
駅へ見送るときは、いつだって涙なしでは見送れず。
三兄弟は、学生結婚をした長男をはじめ、
次男、三男は、職場結婚をして、それぞれに家庭をもち、
職場に近く、伴侶の実家に近い場所に新居を構え。
連休が取れるときには、必ず帰省して農作業を手伝い、
農繁期、盆、正月、祭りも必ず家族で帰省し、
極力 両親を大事に大事にしてきた三兄弟であっても、
「 三人も立派な息子を持ちながら、誰ひとり戻って来やせん 」
近隣の方々からは謗られ、詰られて来た。
その昔、子どもたちを翔び立たせることを決意した義母ではあっても、
いずれは、この地に三兄弟とも戻って来ることを信じて疑わず。
だからこそ、翔び立たせることができたのであり。
新婚時代から、週末になると必ず義母からの長電話。
安否を問う電話ながら、最後にはいつも、
世も末のように三兄弟がいないことを愚痴られ、悲しまれ、
音をあげ、時間を見つけては帰省して来た。
週末限定だった電話が、不定期に鳴り続けるようになり、
私は、電話の呼び出し音に脅えるようになり。
懐妊したときは、帰省してこの地で出産して欲しいと請われ。
義母の切ない想いに胸が痛んだが、
初産でもあり、私はどうしても広島で私の両親に守られながら
そのときを迎えたかった。
結果、その後すぐに逝ってしまった父に対し、
最大の親孝行ができたのだったが。
あれやこれや、紆余曲折の後、
結局、三男夫婦である私たちが、この地へ帰って来ることになる――。
義母は、三兄弟を手放して以来、ずっとずっと淋しくて、悲しんでいる。
三男夫婦である私たちがこの地に帰って来ても、
義兄たちが帰って来なければ、義母のこころは埋まらない。
何より、長義兄が「 同居 」という形で「 跡 」を継がぬことが
不本意で仕方がないのだから。
だもんで、上の少年が巣立ったときから、
「 淋しかろ 」 「 悲しかろ 」 「 泣くようなかろ 」
と、毎日のように私に言うのである。
そしてその後、「 私は―― 」と、
自分の悲しかったこと、淋しかったこと、が
怒涛のように続くので、私は疲労困憊する。
だもんで、私はつい
「 ぃへぃへ。 まだ全く実感がわかないんですよ 」
「 ぃへぃへ。 高校時代から、家には寝に帰るようなものでしたから 」
「 ぃへぃへ。 メールやら電話やら、すぐ近くにいるようです 」
義母のエンドレスな懐古モードへの突入を阻止して来た。
義母の愚痴の聞き役にはなっても、一緒になって嘆かないし、
ひとの噂話、陰口には、それとなーく拒否して来たのも大きいかも。
そのために、義母は私を
「 いまどき 」 の 「 クールな嫁 」。
「 ひとの 情 を解さない、宇宙人嫁 」。
そう思って来た節がある。
んだから、義母は 少年たちの傘を解体できない私に純粋に驚いた。
んだから、義母の
「 あんたでも? 」 な言の葉は、
クールな嫁と想われてきた私の自業自得、なんである。。。(-_-)。
。。。クールだったら、この地に転居して来んわ~ぃ ヽ(`Д´)ノ

く~~!!
この まるいまるいアーチ! たまりませーん(;;)☆

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「あんたでも?」には、お義母さまの発見の喜びが詰まっていたのですね。