「 できるひと が できる形で 」
って言の葉は、読めば読むほど、眺めれば眺めるほど、逃げ道いっぱい。
苦し紛れ の 落としどころ、な言の葉ですよね。
押し付けにならないよう、苦慮されたなかでの知恵の結集な言の葉だけど、
今は、これじゃ、だめだ、と思う。
たちまち明日から、集団登下校、毎日の保護者パトロール等、
ひとりひとりの力が必要とされる毎日が始まる今。
「 できるひと が できる形 で 」では、
どうしたって、「 できないひと 」 が出てくるよね。
本当にどう逆立ちしても、どんなに想いがあっても、
物理的にどうしようもない。 今できない、ひとは確かにいらっしゃる。
けれど、殆ど大多数のひとは、
ご自分がご自身を「できない」と決め、そう想っておられるだけ、だ。
拡大解釈、都合いい解釈をされ続け、
果ては「あなた、できるひと、私、できないひと」などと
括っていかれてはたまらない。
「 できるとき に できる形で 」
ぅん。 これで行きましょう!!
誰でも。 何かはできるんです。 いつかは。 きっと。
ぅん。 私はこのスタンスで行きたい。 これで 行こう。
◆ ◆ ◆
わきさんからのメッセージ、
そして、トラックバックいただいた
_AZ_さんの日記を読ませていただいて、
あたかも例えるなら、
_AZ_さんのご主張は、『 信長 』 タイプ。
わきさんの形は、『 秀吉 』 タイプ。
んで、私の悠長な理想論は、『 家康 』 タイプだと感じてしまいました。
んでもね、結局、三者が感じてるところ。
本当は目指したいところ、は、一緒のところなんだよね、と
私には、びしびしと伝わって来ちゃう、と思うのは、読み込み過ぎ、でしょうか。
_AZ_さんは、
本当に出来ないひとにも、面倒だから出来ないというひとにも、
「何なら出来る?」と問い掛けることは愚問であるし、
下手をすると、プレッシャーをかけて脅迫しているようなものになるし、
どういう聞き方、言い方をしても断られるために、時間と神経の無駄だと。
> 無理にやって貰っても、どうも無責任で、かえって周りが困る事も多いし。
> やりたい人だけで やるんでもいいんじゃないかな と。
> で、集まった人達で「出来る範囲」の仕事をする。
> 年によっては、広報委員がいないといか、
> 文化委員がいないとか、
> それもありなんじゃないかな?と。
一見、乱暴に読めるこれらの言の葉の間から、
それでもひとりでも多くの方々に声を掛け、心配りをされ、
その度にずたずたになって来られた_AZ_さんの切なさが垣間見えます。
あぁ、もう、できるひとだけで、たったかたったか前向いてヤってしまって、
文句言うひとには、勝手に言わせておいて、
あー、もぉ、それでいいぢゃん。
ヤるひとは、工夫して知恵を絞りだしてヤって下さるし、
ヤらないひとは、どうやってしないよーーー。 もぉ、イヤだよーーー。
って、泣いておられる_AZ_さんに、
それでも。
それでも、やっぱり、声掛けて行こう。
ヤるひと、ヤらないひと、の線を取り外したい。
ひとりでも、輪を広げようって、言ってしまいたい私は、鬼かも。。。
だって、ひとは変われる。
横向いてた御方が、2年後執行部に、なんてケースもたくさんあるんですもん。
わきさんは、
> どちらかというと『できないなら、できるようにしちゃえ!』と
> いうような奴なので、やりたくない人からは嫌われたかも・・・。
とにもかくにも「できる形」に持っていこうとされ、
役員さんとそうでない会員さんとの軋轢にこころを砕かれたようにお見受けします。
それぞれの学校の、それぞれのPTAに。
どんな行事があって、そのために、どんな役員、委員、係があって、
それぞれにどんな仕事をしているのか。
私は、やっぱり、皆さんに知っていただきたいですね。
少なくとも、今現在、PTAの執行部に在り、
それを執行してきたもの、には、その努力をする責任がある、と考えます。
「 あ、私、これだったらできる 」と思っていただけるかもしれないし、
「 これをこんな形に変えていただけるんなら、できそう 」と
新しい観点からの提案までいただけるかもしれないし、
逆に、皆が皆、
「 えーー、こんな大変なこと、できない!」と、一斉に退かれるようなら。
それは、「そういうもの」だと思って、受け継いでは来たけれど、
今の時代、実は、人数調整でも如何ともし難いようなものかも知れず、
廃止の方向も含めた、再考の価値がある行事や運営内容かもしれない。
PTAの行事が、役が、何故あるのか、何のために在るのか。
どの学校もどのPTAも、多かれ少なかれ、見直しの時期に来ているのだと思う。
これから、
お金がないので、
教職員、保護者共々、同床異夢ながら、同様に右往左往するなかで、
小学校の統廃合、小中一貫、中高一貫、どんどん進んで行きます。
そんななかで、
いざ、コトが起こったとき。
よっしゃ!と、誰もが子どもたちのために、
駆けつけて来て下さるような関係性が築けている学校であれば、
PTAなんて、なくて構わない。
自分の子どもたちだけでなく、周りの子どもたちもしっかり観えており、
学校の抱えている問題、先生方の直面している問題、
クラスの雰囲気、課題、、、、それらのことを、ちゃんと把握できており、
よりよい子育てに向け、誰もが頑張れる体制に常に在るなら、PTAなんて、必要ない。
しかし、現実はどうなんでしょう。
「 コト 」とは、昨今の不幸な事件に限りません。
子どもたちのクラブが全国大会へ初出場が決まった! さぁ、どーする?
学校が、全国国語教育推進モデル校に決まり、
2ヵ月後に全国規模での参観がある! さぁ、どーする?
隣の小学校のクラブと試合中にトラブルになり、喧嘩沙汰にまで発展し、
不幸なことに怪我人が出てしまった! さぁ、どーする?
小学校が来年から隣の小学校へ統合されることになり、片道5km。
毎日我が子を送り迎えしなければ、不安で仕方がない! さぁ、どーする?
今は、我が子に直接かかわりなくとも、
およそ、ありとあらゆることがいつ、どのように起きるか判らない。
そんなとき、一保護者としてどう動き、どう我が子(だけ)を守り抜くのか。
果たして、タイムリーに動けるだけの情報を、自分は持ち合わせているのか。
どうも、私の生き別れの弟であるらしい(笑)かいちょーさんの
『 うだうだ考える 』ななかで、
> というわけで、保護者は学校の様子を知るべきだし、
> 先生のことを知るべきだし、自分の思いを伝えるべき。
> そのためにはどうすればいいの?
> まずは学校に行ってみなきゃ始まらないんじゃない?
と、書いておられました。
なんだか、もう、それに尽きる、ような気がします。
今の時代、保護者が学校を識る、ということ。
学校での子どもたちの様子をしっかり観る、ということ。
子どもたちがどんな表情で授業を受けているか。
子どもたちが、どんな友だちに囲まれ、どんな笑顔をしているか。
先生方がどんなにご努力されているか。或いは手抜きをされてるか。
子どもたちの日々の喜び、悲しみは、何処から生じてきているものなのか。
それらをしっかり観て、識る、ということは、
今の時代、決して「過保護」とかなんとかいう次元ではなく、
学校や我が子に対する自分自身の見識を正す、理解を深める大きなチャンスだし、
現実を観、そのなかで生き抜く力を培おうとしている子どもたちへの応援であり、
学校や先生方に対する「観てるよ」な、
とっても大きなメッセージ(激励、感謝、けん制)になる、と思います。
で、子どもたちが登下校中にまで、いのちの危険がつきまとうようになって来た今、
保護者のパワー、地域のパワーの結集が、まさに望まれている訳で。
どうせなら、PTA活動は楽しく、意義深いものでありたい。
そして、役員さんが流される涙は、達成感での感動の涙だけであって欲しい。
役員じゃない方々が、役員さんを支え、目標を達成していく。
子どもたちには、そんな保護者同士の姿を見て欲しいな、って、やっぱり思う。
そのためにできること。 できる形。 できるとき。
なりふり構わず。
考えて行きたいし、動いて行きたい。(けど、終わっちゃった・(淋))。
スポンサーサイト
ジャンル : 学校・教育
テーマ : PTA
タグ : PTA PTA活動 PTAは何のため PTAの存在意義 できるときにできる形で PTA役員 役員と非役員